また一人、昭和のプロ野球界を彩った名プレイヤーが他界した。野村克也さん。84歳だった。
今でも思い出すが、あの閑古鳥が鳴いた大阪球場で、捕手兼監督時代の雄姿が懐かしい。近鉄ファンだったので南海はライバルチームだったが、頭脳を使った緻密な野球は好きだった。
京都のド田舎、無名の峰山高からテスト生として1954年に南海に入団し、3年目から頭角を現した。65年には打率、本塁打、打点の3冠王に輝いた。8年連続本塁打王。ライバルチームの投手、西鉄ライオンズの剛腕・稲尾和久投手の8ミリビデオを何度も何度も見てクセを見抜き攻略した話は有名だ。
70年からは南海ホークスで選手兼任監督となり、73年にパ・リーグを制覇。この頃のイメージが個人的には強い。78年にロッテ、79年に西武に移籍し、80年のシーズン終了後に27年間の現役生活にピリオドを打った。当時は日陰の存在だったパ・リーグ一筋の野球人生だった。
通算出場試合数は3017試合(歴代2位)、打率.277、657本塁打(同2位)。パ・リーグ最優秀選手(MVP)に5度、本塁打王9度、打点王を7度獲得し、89年に野球殿堂入りした。
90年にヤクルトの監督に就任。今では当たり前のように駆使されているデータに基づいた野球を導入し、「ID野球」という言葉も生まれた。選手の個性を見抜き、下位に低迷していたヤクルトを日本一の軍団にした手腕は見事だった。ヤクルト在任9年間でチームを4度のリーグ制覇、3度の日本一(93、95、97年)に導いた。
恵まれた身体能力でもなく、これだけの数字を残しながらスポットライトを浴びる野球人生でもなかった。それだけに苦労する選手に温かい視線を忘れなかった。「野村再生工場」で戦う場を与えられた選手も多かった。
監督として通算勝利数は歴代5位の1565勝(1563敗76分け)。弱いチームを任せられたことを考慮すれば名監督の一人であることには異論がないだろう。
早い時期からデータを重視した野村さんの野球は間違っていなかった。解説者としての言葉にも説得力があった。もう少し後の時代なら、メジャーリーグの監督やアドバイザーをする姿も見れたかもしれない。それを考えれば残念な気がする。
突然の訃報に言葉が出ません。
野村監督には、ピッチングとは何か、そして野球とは何かを一から教えていただきました。
プロ入り一年目で野村監督と出会い、ご指導いただいたことは、僕の野球人生における最大の幸運のひとつです。
どんなに感謝してもしきれません。
心よりご冥福をお祈りいたします。
— 田中将大/MASAHIRO TANAKA (@t_masahiro18) February 11, 2020