「赤鬼」近鉄バッファローズの主砲
■ お疲れ!チャーリー
日本でもスポーツ紙や数々のサイトで取り上げられましたフィリーズ監督チャーリー・マニエルさん解雇の記事。
NPBでも活躍した外国人プレーヤーの代名詞みたいな人です。近鉄ファンだった私にとっても忘れる事のできない野球人です。広岡ヤクルトから西本近鉄へ。セ・パで打ちまくりました。
ヤクルト時代の成績
1977年、打率.316、42本塁打、97打点
1978年は、打率.312、39本塁打、103打点
ヤクルトを悲願の初優勝に導きました。
おそらく球団史上最強のクリーンアップではないでしょうか。
でも広岡野球と合わなかったのか、ラッキーな事に近鉄に来てくれました。
西本監督は「攻めダルマ」ですから、マニエルさんはのびのびプレーできたと思います。
■近鉄1年目の1979年6月の衝撃
ロッテの八木沢投手にぶつけられたアゴの複雑骨折事故。
私は高校生でしたが、近鉄ファンのおっちゃん達は、みんな怒ってました。
マイナーリーグ時代もアゴに死球を受けて骨折したことがあったため、手術は困難を極め、実に5時間半に及んだという。病院の周りは心配した近鉄ファンでいっぱいになりました。
「近鉄も、西本監督も、私を必要としているのだ」
彼は、病院や知人が止めるのを振り切ってグラウンドに戻ってきました。
6月9日に被弾して8月4日にカムバック。
■あの有名なヘルメットのフェイスガードもインパクト大
浪花節的な男なんですよ。おそらく。
シーズン97試合出場ながら打率.324、37本、94打点をマークしたマニエルさんは、シーズンMVPに選ばれる。
■近鉄をリーグ優勝に導いた男チャーリー・マニエル
あの忘れもしない「江夏の21球」のシーズンです。
近鉄をリーグ初優勝に導いてくれました。
その後のメジャーでの経歴は、数々のブログで紹介されているとおりです。
フィリーズ在籍期間がもっとも長いロリンズ遊撃手によると、マニエル監督が持ち込んだルールは「たった2つだけ」だという。
「時間厳守とハッスルすること」
「楽しむということと、ふざけることの境界線だけしっかり引いておけばいいのさ」
フィリーズをMLBで常勝チームにした人ですが、「名将」というより私の中では「闘将」というイメージです。