楽天の星野仙一球団副会長が4日に亡くなったことが報じられた。70歳だった。「がんで闘病していた」という事は伝わっていたが、現時点では死因は明らかになっていない。
現役時代は中日のエースとして活躍し、引退後は中日、阪神、楽天の監督を歴任。計4度のリーグ優勝を飾り、楽天時代の2013年には弱小球団を日本一に導いた。
星野さんが現役時代は、パ・リーグのファンだったのであまり記憶がない。
監督になってからの印象が強い。「闘将」と呼ばれ、強いものや大きいものに立ち向かうファイティングスピリットは見ていて心を揺さぶられた。
人となりが伝えられ、岡山で中学生の時に筋ジストロフィーの同級生をおんぶして登校していた逸話は有名だ。
ご冥福をお祈り申し上げます。
以下、スポニチから引用。(改行は筆者)
突然の訃報だった。星野氏が息をひきとったのは4日。球界関係者によると「がんで闘病していた」という。昨年末に体調が悪化し、年末年始を家族とハワイで過ごす予定だったが急きょ取りやめていた。
昨年11月28日に東京で、12月1日には大阪で「野球殿堂入りを祝う会」に出席。2000人を超えるプロ、アマの球界関係者が集まり「これだけの人が来てくれて野球をやってて良かった。野球と恋愛して良かった。もっともっと恋したい」と失われない野球への情熱を口にした。
しかし、これが、最後の晴れ舞台となった。
相手が強ければ強いほど、「燃える男」。現役時代のキャッチフレーズだった。その原動力が「打倒・巨人」。ドラフトでふられ、憧れの球団は「生涯のライバル」に変わった。
中日のエースとして闘争心をむき出しにして投げ、巨人戦は歴代6位タイの35勝で通算146勝を挙げた。
沢村賞を受賞した74年にはV10を阻止して優勝したが「日本シリーズは邪魔。俺は巨人を倒したからいいんだ」と言い切ったほど、巨人を倒すことに執念を燃やした。「強い巨人に勝ちたいんや」。その思いは引退後も変わることはなかった。
監督時代は「闘将」と呼ばれ、代名詞は鉄拳制裁だった。
「非情と愛情の2つを併せ持つことが大事」という持論を持ち、闘う集団につくり上げた。
中日で2度のリーグ優勝。97年には扶沙子夫人(享年51)を白血病で亡くしたが、グラウンドで戦い続けた。
「俺は弱いチームを強くすることが好きなんだ。それが、男のロマンやないか」。
反骨心の塊のような男。02年に低迷していた阪神の指揮を執り、翌03年に18年ぶりのリーグ優勝に導く。
楽天監督時代の13年には日本シリーズで宿敵の巨人を破り、4度目の挑戦で初めて日本一監督となった。
14年にユニホームを脱ぎ、15年に球団副会長に就任。ONとともに球界への影響力は大きく、星野氏も「野球への恩返しの意味でも自分の思いや考えを若い人につないでいきたい」と語り、野球の普及活動に尽力していた。
恋に恋した野球。しかし、楽しみにしていた20年東京五輪を前に帰らぬ人となった。あの笑顔はもう見れない。あの怒鳴り声ももう聞けない。
星野仙一氏死去 がん闘病…「燃える男」「闘将」突然すぎる70歳― スポニチ Sponichi Annex 野球 https://t.co/OxIxJPm35A
— スポニチ野球記者 (@SponichiYakyu) 2018年1月5日
※その後、死因は、すい臓がんだったということが、楽天が発表したリリースで判明した。