※これは2015年5月12日の記事です。
「球速も上がってきました。スプリットの切れ味も我々の愛する以前のコウジに戻りました」
――ボストンの地元テレビ局「NESN」の実況。
日米通算129勝の上原浩治が100セーブをマーク!
レッドソックスの公式ツイッターは「ハイファイブシティ。チームウエハラがNPBとMLB通算で100セーブ目」と守護神のマイルストーンを祝福しています。ハイファイブとは、勝利のあとに上原がチームメイトとかわす歓喜のハイタッチのこと。
7日には投手コーチが解任され、その後、ブルペン右腕のムヒカが戦力外(トレード)に。チームに重苦しい雰囲気が漂う中「(ムヒカは)ムードメーカーで寂しい思いもあるが、自分のやるべきことに変わりはない。勝てばストレスもなくなっていく」と、自分の果たすべき役割に集中した。
名球会入りの条件でもある200勝は日米通算で達成した野茂英雄も含めて25人いるが、「100勝100セーブ」は8人しかいないらしい。しかも上原の場合、通算129勝中、108勝は先発で挙げたもの。スターターとクローザーという2つの役割で大台に到達した。
ちなみに「先発で100勝以上100セーブ」は、江夏豊、笹岡真司についで3人目。
偉業を達成した上原自身もブログで「皆さん、ありがとうございます(^-^)/ 日米通算ですが100勝100セーブ出来ました。17年かかりました」と感謝の気持ちを伝えている。
http://www.koji-uehara.net/2015/05/12/0458.html
また、上原100セーブのお膳立ては、TAZこと田澤純一が7回1死から1回2/3を1安打無失点でホールドしている。シビレる勝利の方程式“日本人リレー”を演出している。
度重なる故障を乗り越えてつかんだ記録
上原は、巨人入団1年目の1999年にいきなり20勝。とくに阪神ファンでもなかったのですが、当時は大阪在住でしたので、大阪から東京の巨人に行って活躍する姿を見て最初は腹が立った。
その後、上原をケガが襲う。両脚の故障が慢性化。それでも地道なリハビリを繰り返し闘う上原の姿があった。結局、その故障が「クローザー上原」誕生の契機となった。
2007年に、両太腿を痛め、初の開幕2軍。復帰直前の4月25日、原監督に抑え転向を打診されたという。 初セーブは、5月2日の中日戦。この年、当時の球団記録となる32セーブをマークした。
勝利のマウンドにコウジの姿がある
2009年のメジャー移籍当初は先発。しかし、オリオールズ1年目の6月に右肘を痛めてシーズン終了。脚、肘の故障から、翌10年以降は体と相談しながらリリーフに専念した。
正確なコントロールと140キロを150キロの速度に感じさせる投球技術、パワーヒッターに向かっていく闘志あふれるパフォーマンスで、目の肥えたボストンのベースボールファンを熱狂させた。
2013年には、春のボストンマラソンでテロ事件が起きて「BOSTON STRONG」の合言葉のもとボストン市民とチームは一丸となってワールドシリーズを制した。その勝利のマウンドには歓喜する上原浩治の姿があった。